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男性も、女性も、国々も一体にする

キリスト教科学さきがけ』2011年02月 1日号より

Christian Science Sentinel, October 20, 2008


私たちの世界では、対立するさまざまな利益のために、無数の出来事が私たちの周りに渦巻いているように感じられることがあります。ときには、多くの異なる派閥が、資源、承認、権力のため、あるいは単に私たちの注意を引こうとして、相争っているように見えます。しかし、信仰のある人々は、人生の見通しに平安が感じられない事態に直面しても、真理の基盤を持っているので、そこから支えとなるものを引き出すことができるのです。そして、人生とは、止めどなく現れてくる権力闘争ではないという、霊的事実に寄り頼むことができるのです。

そこで、人生の誤った感覚を、もっと調和に満ちた、日々の経験が統一されたものとなるために置き換える、特に貴重な方法が二つあります。私にとって、その一つは、聖書と、キリスト教科学の教科書であるメリー・べーカー・エディ著『科学と健康‒付聖書の鍵』を読み、学ぶことです。この勉強が、常に、次の歩みに導いてくれます。つまり、私を祈りの聖所に向かわせてくれるのです、それは、霊的理念が、私を一歩一歩導いてくれるところです。

物質的知性は無い、と認めるところから始めてみましょう。、または性ののみが、唯一の知性です。が普遍なる調和の原理です。そして、は間違うことがありません。

私が常に自分に言い聞かせているのは、私にとって最大の闘いは、誰か他の人との闘いではないということです。大切なのは、自分自身を排除して、の調和の法則が事態を統べ治められるようにすることなのです。すると、私が他の人々や状況を支配しなければならないという重荷や信念が、自然に無くなってしまいます。

私はまた、事態を利己的にのみ見ていることによる無意味な心配や、繰り言は、一切しないということの大切さも学びました。そうすると、本当に必要なことに焦点を当てることができるのです。視野を広げると、どんな状態に直面していても、善い結果をもたらすために、自分が透明となる、あるいは道具となることができるという、喜ばしい可能性を持つ展望が開かれてきます。自分自身から目を反らし、に目を向けると、が企画する日を構成する多くの恵みを受けるため、謙虚な心で準備することができます。

私は自分の人生で、大小さまざまの権力闘争に対処するなかで、誰でも、より高度な霊的見解を持つことにより、状況に支配されることから解放されることを学んできました。

私が最初にこれを経験したのは、小学校6年生のときでした。私は、目立って背が低く、ミシガン州の田舎から南部の町に引っ越してきたばかりでした。それまで、白人以外の人を見たことがなく、最初の休み時間に黒人の子と楽しく遊んでいました。

その日の午後、白人の子供たちが大勢で私を取り囲み、私をレンガの壁のところに追い詰めたのです。背の高い女の子が前に出て、怒った口調で聞くのです、「あなたは、ヤンキー、それとも反逆者?」私は、この詰問にひどく戸惑いました。そんな言葉をそれまで聞いたことがなかったのです。私はとても緊張し、事の重大さを感じていました。日曜学校で私はの子であること、そして私の本体、身分は、に定義されていて、完全に霊的であると学んでいました。のみが唯一のであり、この神性の知性が、私にその答を教えてくれることを知っていました。

そこで即座に、私の霊的本体、私の真の身分は、彼女の言ったどちらの選択肢にも該当しないことに気づきました。それはまた、私の挑戦者にも該当しないものでした。イエスが真理を語ったときのことを思い浮かべ、私は静かに、しかも出来るかぎりの威厳を奮い起こして言いました:「私はキリスト者です!」その地域では、誰もこのような言葉には反論しようとはしないのでした。そして、私は、自分の返事が、この根拠の無い質問のどちら側にも味方するものではないことを、知っていました。子供たちは、行ってしまいました。

後に、私はキリスト教科学を勉強するようになって、権力闘争は避けられないものと信じる誘惑に抵抗する霊的基盤を、よりよく理解するようになりました。それは、『科学と健康』にある次の文章に明確に示されています:「唯一無限の・善は、人々も国々も一体にする;人々の兄弟関係を築く;戦いをなくす;聖書の『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』という言葉を成就する;異教およびキリスト教の偶像崇拝、つまり社会、民事、刑事、政治、宗教上の法典の中の、正しくないものすべてーを全滅させる;男女を平等にする;人にかかっている呪いを無効にする、そして罪を犯したり、苦しんだり、罰せられたり、滅ぼされたりするものは、何も残しておかない」(p. 340)。

よく見ると、この文章は唯一(一つ)という数字で始まっていて、それが重要な意味を持つことが分かります。唯一、ひとつの。それは、唯一の神性ののみが存在することを確立し、つまり、唯一の善は、無限であり、の子たちすべてを包含していることを明白にしています。何であれ、相争う二つ以上の人間の心が存在し得るという暗示は、霊的事実に基づかず、幻覚にすぎないことが分かります。この観点に立つと、私たちも、キリスト・イエスの示した模範にもっと容易に従い、また、その教えを全ての状況に活用できるのです。

このの理念、つまり人々は、一体になリ得ることが、私がアメリカ軍従軍牧師の評議会議長をしていたときに、明確に実証されました。ある日、統合参謀本部議長の事務所から緊急電話を受けました。ボスニアの派遣団が、外国高官に通常行われる説明会を通さないで、アメリカの従軍牧師らと話したいと、特に要請してきたのです。

ボスニア人たちの質問は簡単明瞭で、意味深く、誠実なものでした。彼らが知りたかったのは、アメリカは、多くの宗教的伝統を包含しながら、どのように共存し、殺し合いをせずに一緒にやってゆけるのか、ということでした。私は、自分ひとりで、このような難しい質問に満足に答えることはできないことを知っていました。しかしながら、彼らは、宗教間の権力闘争は避けられないものだという考えを、本能的に拒否していることを感じました。彼らは、何かもっと真に満足できる答を求めていました。それは、エディ夫人が次のように説明している状態なのかもしれません:「人間は、肉体的なと人を信じる物質的な信念には得られない、何かより良い、より高い、より霊的に清らかなものを求めて、欲求不満におちいるのである」(『科学と健康』、p. 258)。

私は、聖書の中でソロモン王が智恵を下さいとに頼んだことを思い出して、唯一のに導きを求めました。すると、「個人との関係ほど、聖であり、また個人的なものはない」という考えを伝えるように導かれました。すると、ボスニアの友人たちは、それをノートに書き留めていました。私は、軍に属する人たち一人一人がそれぞれ、自分が尊ぶ形でを崇拝し、自分の祈りの規則に従って祈りを実践することが、我々の軍全体をより強くし、より効果的なものにすると考えている、と答えました。

そして、幾つか例をあげて話しました。バルカン半島各地に陣地を設置するにあたり、特殊部隊の組織のなかに、異なった宗教の祈りの場を設ける必要があることを、司令官たちに私自ら話し、説得したことを話しました。そして、最初の移動式チャペルを組み立てるときには、すでに戦闘地域で過重な労働時間を過ごしてきた兵士たちが、無報酬で更に時間を捧げて、チャペルを完成させてくれたのです。

また、コソボにおける最後の任務にあるとき、アラブ首長国連邦から送られてきている兵士たちには、なぜ個別の祈りの場を用意することが必要なのか、司令官が理解するように努力したことも、話しました。これら個々の思いやりが、この平和構築活動に参加しているイスラム教徒の国の人々に、強い印象を与えました。そしてまた、その日の会議の席上でも、ボスニアのイスラム教徒の代表者たちに、強い印象を与えました。出席者たちは、それぞれがを愛している気持ちをお互いに理解したいという願いが、皆を団結させたことを認識し始めていたのです。つまり、私たちは、多くの異なった人間の心が、対立しなければならないという信念に、徹底的に抵抗していたのです。

私は、また、道徳的勇気は、単なる肉体的勇気以上のものであると考えていることを説明しました。軍の職業上の倫理は、ジュネーブ協定が定める人権保護を尊重するものであり、それは、軍を束縛するのではなく、むしろ強化するものであると信じている、と言いました。そして、最後に、特殊部隊の名前そのものが「平和構築を使命とする」ことを、改めて指摘しました。

その日、出席者一同が、聖書の約束する「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らはの子と呼ばれるであろう」(マタイ5:9)という言葉が正しいことを、それまでになく強く確信して、会場を去ったと信じています。また、権力闘争の解消は、集団のものであれ、個人のものであれ、どんな進歩も、実は多くの個人が歩んだ一歩一歩の結果であるゆえ、同じ原理の活用によって果たされるのであることを、一同、確信したと思います。例えば、アメリカにおいて、すべての人に平等の機会を与えることに懸命に努力するなかで、人種と性の差別を無くすことは、多くの人たちにとって感情的論争になりながらも、そのような論争に阻まれることなく、そのいずれも、歴史のなかで達成されているのです。このように進歩が可能であったのは、「唯一無限の、善」が、すべての兄弟関係、姉妹関係の真の基盤であるからです。唯一のが、常に、社会、民事、そして軍事についてさえ、誤りを正す基盤となっているからです。

1970年代の初め、私は軍人になる準備として、『科学と健康』の次の引用文を勉強しました:「真実で永遠のものを学ぼう、そしての統治、天の王国に備えよう、ーつまり普遍の調和が統治し、支配することであり、それは失われることなく、また永久に隠されていることもない」(p.208)。その後、軍の組織に女性を組み込む変革のなかにあって、私は、個人的にも、組織的にも、人間の意見について口論しても無意味であることを、早速、学びました。個人の意見について論争しても、何の結果も生まれず、怒りは、さらに逆効果でした。苦言を呈しても、何の実りもありませんでした。苦情は、非公式のものも、公式のものも、指揮系統の中で権力闘争という印象を高めるだけでした。

私は、に関する次の考えを使って祈ることにしました;「彼は、一つのにある。だれが彼をひるがえすことができようか。彼はその心の欲するところを行われるのだ。彼はわたしのために定めた事を成し遂げられる。そしてこのような事が多く彼の心にある(ヨブ23:13,14、欽定訳聖書より)。この言葉が、深刻な権力闘争のように見える事態のなかで、自分に個人的責任があると思う誘惑から、完全に解放してくれました。私は、自分の思考と行動の特質が、自ら証しすることになることを,固く心に決めました。私が、からくる特質である忍耐、柔和、知性、そして愛を現すならば、それが見えてこないはずがないのです。これが私の任務遂行のための座右の銘となりました。

ある日、任務について間もないころ、私より三つ上位にある新しい指揮官が、自分の机の前に、私を直立の姿勢で立たせました。彼は、自分は女性の牧師を求めていないのだと言い、また、なぜ私が家庭に入り子どもを産んでいないのかと聞きました。

私は絶対に反発しないことを心に決めていました。私が犠牲者であり、彼が加害者であるという考えを、拒否しました。また、彼がどんなに無神経に思われても、それを信じまいと決めていました。

私はただ静かに立ち、怒ったような反応を少しも見せませんでした。祈りながら導きに耳を澄ましていると、指揮官に質問をして彼の問に応えるべきだという考えが浮かびました。そこで次のように言いました、「私は、に授かった命に深く感謝しています。そこで、その命を、兵士たちのために尽すことに捧げようと決めたのです。お分かりいただけますか?」。彼は座っていた椅子に沈み込んで、恥じているように見えました。彼は、静かに、もう下がってよい、自分の部署に戻りなさい、その部署での私の任務を彼は拒否しない、と言いました。

その部署にあるあいだ、この指揮官は私を更に2回呼びだしましたが、私は彼が聞くことを望まないだろうことを伝えなければなりませんでした。私は、道徳的勇気はどんな罰をももたらすことはないという事実を、固守していました。

2年後に韓国に任地が移ったとき、この指揮官が、私の上司が提出した私の公式評価を、私に読んで聞かせたい、と言いました。私の上司より位が二つ上の彼は、私の評価にただ目を通すだけのはずだったのですが、彼は新たにもう一つ文書を加えていたことを知りました。

驚いたことに、その報告書には、私の仕事に対する高い点数と評価のみ書かれていました。この報告書は、陸軍の規則を曲げて書かれたものながら、私の公式記録として生涯残るものとなりました。

科学と健康』は、次のように忠告しています、「罪と官能性が、いさみ足で力をのばしているこの世界において、人に影響を与えているのは、人の心であろうか、それとも神性のであろうか、真剣に考えてみることが賢明である」(pp.82−83)。権力争いは、我意、自己弁護、恐怖の装いをして、私たちの生活の中に、つまり私たちの考えの中に、または他人の考えの中に、居座ろうとしているかもしれません。しかし、私たちは真に道徳的勇気に導かれていることを、見極めなければならないことを、私は学びました。従ってはならない声を、見極めることも大切です。誇りと憤りの声の違いが分かるように、自分をよく知ることも同様に賢明なことです。自分に正直であることは、常に自分を益します。自己欺瞞が、もっとも破壊的な欺きです。

軍籍にあった28年のあいだに、に完全に頼るとき、何か失うのではないかという誤った推定から解放される経験を、幾度となくしました。新鮮な目で見ると、「権力闘争」において、何か価値あるものが失われることはなく、多くのものが得られるのであることが、はっきり示されるでしょう。

派閥とか人物が、物事の結果を支配したり、実権を握っているという信念を完全に捨てるとき、が統治しているという確信を得ます。の家族がどんな形であれ分裂しているという見解を捨てるとき、人々の兄弟姉妹関係が少しも傷つかず完全に守られていることが、確信できます。すると、私たちは、の映像である自分の霊的身分の真理を得るのです。

怒り、恨み、恐れによって、善に何かしら貢献するなどという誤った信念から解放されると、真の謙虚さを得るのです。物質的な手段が、の方法だという信念を追い払うとき、の無限の可能性に目覚めます。人間的な努力を信頼することを止めると、もっともっと大切なものを得るのです、平和を得るのです。

唯一のに導かれるように、いつも心を向けていると、権力のための争いには、一切かかわらないようになります。私たちが興味を持たず、加わらないと、権力闘争は消えてしまいます。人知ではとうてい計り知ることのできない平安を、知ることでしょう(ピリピ 4:7参照)。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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